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第4話~第6話(2010Xmas)



第4話:作戦名、「犠牲者を増やせ」

 12月7日、今日も何も知らないスタッフが受け取った白いケーキ箱は、いつも通り会議室へ届けられた。

 ここには、鉄道開発所のスタッフ達と、二日前、既に体験して薄ら暗い表情をしたセッツァー、飄々としたロックが新しい訪問者であるエドガーを迎えている。

「レディからケーキの差し入れなんて、身に余る光栄だね」
「……王様、アンタが来たら急に手作りだとよ」

 隣に座ったセッツァーの冷やかすような声に、エドガーがニヤリと笑う。エドガーは、側近を背後から壁際まで下がらさせて軽く寛いだ。手際良くビッグスとウェッジが箱からケーキを取り出して配る。とても形が良いモンブランが、手作りと判る銀紙に包まれて姿を現した。

「せっかくだから、エドガーの感想をセリスに伝えてやりたいしな。紅茶でも淹れるよ」
「ここにはデザートフォークなんてお上品なモンはねぇから、ガバッといけよ?」

 セッツァーのジェスチャーにエドガーが苦笑する。ロックが立ち上がってティーカップを用意し始めた。
 セッツァーが銀紙の包装をゆっくり剥がすと、信用したのかエドガーが一口分、口の中に含んだ。

 時が、止まる。

 口に含んだ瞬間を見逃さずに、セッツァーがエドガーを後ろから羽交い締めにした。ロックのパチン、という指の音と共に、ビッグスとウェッジがモンブランの残りを無理矢理エドガーの口の中へ押し込む。

「観念しろよ、王様」
「エドガー様、申し訳ありません!」
「これもセリスさんの為なんです、フィガロ国王!」

 セッツァー、ウェッジ、ビッグスが矢継ぎ早にエドガーへ向けて言うと、最後に、ロックが止めを刺すつもりで頭と顎を抑えた。エドガーの顔が明らかに発熱しているのが判るが、彼らに容赦などという言葉は存在しない。

「 咀 嚼 し て く れ 」
「―――……ッ!」

 二度咀嚼したのを確かめると、避難する為に全員がエドガーの背後へ逃げた。
 綺麗な放物線を描いて霧状の何かが噴射される。白眼を向いた一国の王は、顔を真っ赤から真っ青に変えると、泡を吹いて椅子ごと後ろに倒れた。

「「陛下ぁーーー!!!」」
「あ、医療班ですか?こちら鉄道開発部ウェッジです。いつもの宜しくお願いします」
「……今回は、マロン部分が肉か。マロンクリームに刺身と春雨はなかなかエグいな」
「おいおい、ロック。中身がクリスマスカラーの方が問題じゃねぇか?」

 走り寄るフィガロ国の側近と、慣れたのか冷静な対応をするベクタ鉄道開発スタッフ。ロックとセッツァーは、エドガーが3分の1程残したモンブランや吐き出した何かをじっくりと観察していた。
 気絶して色々な物を吐き出したエドガーの鼻から春雨が飛び出ていたが、「セッツァーの時よりましだな」とロックが呟く。傷だらけの顔を更に人相悪くしてセッツァーが笑う。

「あの時は、殺意が湧いたからな。まぁ、殺意すら消え失せるトラウマになれば大丈夫だろ」

 医療班が穏やかな顔でエドガーを運んでから、3時間が経過した。震えた様子のエドガーが会議室に回転のこぎりを持った姿で現れたが、全員全く気にした様子もない。
 ベクタ鉄道開発スタッフとロック、セッツァーが「威力が気絶時間2時間からアップしてるな」と話し始めた。

「諸君、遺言はそれだけか」
「『レディ』の手作りケーキが殺人動機とは泣かせるねぇ」

 エドガーがジャコッと安全装置を外した瞬間に、セッツァーが人相の悪い目つきで口元を歪ませる。エドガーの口癖である『レディ』を犯罪理由に使うとは、と嘲笑された気がして、エドガーは笑顔を浮かべたまま余計に苛立った。

「色々と、斬新すぎる味だったよ……甘くて辛くて酸味が強いのに生臭い、噛み切れない何か……ぅっ」

 そこまで言ってから思い出したのか、思い切りしゃがんで口元を抑えた。膝をついたエドガーの目の前で、数枚の写真を見せるようにロックがしゃがむ。エドガーの青い瞳に映る写真には、全て日付が書き込まれていた。

「……なんだ、これは」

 片手に持った回転のこぎりを、ギュイインと音を立てさせながら写真を奪い取る。日付を遡るように写真を捲っていくと、段々と菓子の形を模さない何かになっていくのが判った。
 エドガーが綺麗な眉根を寄せると、写真の裏面を徐に捲る。

「11月30日、ウェッジがセリスから受け取る。12月1日、警備隊がセリスから受理。2日、受付嬢がセリスから受理……。おい、ロック」
「……全部、会議室宛だ。が、俺は12月2日からセリスの姿を一度も確認していない」

 エドガーが何かを察知したように回転のこぎりのスイッチを止めて、ドンという鈍い音をさせながら会議室の机に乗せた。
 ベクタ鉄道開発スタッフ全員が、『物騒な行動派国王だ』と思うものの、フィガロ国はスポンサーであるが故、口を噤んでいる。椅子に仰け反るように座って足を机に投げ出したセッツァーが、歪めた口元の口角を更に上げて口を開く。

「俺が食ったのは、二日前だな」
「……」

 エドガーが二日前の写真を見つけると、それは綺麗なチョコレートケーキのように見えた。歯形で分断された写真に目を移すと、そこには佃煮、サンマの頭など、おおよそ理解に苦しむものが飛び出ている。

「……衝撃的なアイディアだね」

 エドガーがそう言うと、他のベクタ鉄道開発スタッフ達はそっと自分の食べた物体の写真を各自で指差す。
 初期の頃はケーキの形すら模していない。何故食べたのかすら疑問に残ったが、ここは一番の疑問点だけを口にする事にした。

「ロック、お前はどれを食べたんだ」

 写真はほぼ全て指し示されたのに、ロックだけが指を指さない事に疑問を抱いたエドガーが上瞼を下げ気味にして睨む。それを何事もなかったかのように、ロックは飄々とした表情で今出来たと思われる写真を一枚追加して机全体を指差した。

「このバンダナバカは、全部一口ずつ食ってんだよ」
「なっ……、あれをか?!」

 セッツァーのフォローに驚いたエドガーが立ち上がる。確かに追加された写真のモンブランは綺麗に分断された写真が映りこみ、到底エドガーが押し込まれ咀嚼した何かとは考え難い。
 気絶していたエドガーとしては、全く無事な様子のロックに納得がいかないが、イカサマを見抜くセッツァーが納得している以上真実なのだろう。エドガーがよく見渡せば、ベクタ鉄道開発スタッフがロックを見て涙ぐんでいる。

「大切な事は、俺達が措かれた現状への理解者を増やす事だ。……第三者から見れば、セリスは厚意で差し入れをしているようにしか見えないからな」

 ロックの表情は今日会った最初から変わらず飄々として、感情を読み取る事が難しい。セリスに対してどう考えているのか、それは誰にもわからないが彼はそのまま言葉を続けた。

「俺は、何故、セリスが俺に届けずに間接的にこんな事をしているか知りたい。……3日前から見た目だけ異常に良くなった所を見ても、向こうに協力者がいるとしか思えない」

 犠牲者はイコール、理解者の数。ロックは作戦内容を話始めた。


第5話:愛とは常に致死量の薬だから

 

 ロックはスタッフやエドガー達の協力のもと、徹夜で仕事を進めた。これは異常な勤務時間だったロックに少しでも自由な時間を与える為だ。
 決戦は、昼より前にセリスがケーキを届ける瞬間。その時に捕まえなければ、家にすら戻らなくなったセリスを捕まえる事が難しいと判断したのだ。

「フィガロから技術者の応援人員が来るって決まったお陰で、少し楽になりそうですね」

 ふと、ビッグスがそんな感想を口にしたので、ロックは穏やかに微笑んだ。
 エドガーが取り急ぎ用意した人材を、セッツァーがベクタまで送り届けるという算段である。飛空挺ファルコンならば、往復に3時間。
 緊急要員として日帰りの応援人員を今朝連れてきて貰ったが、長期滞在としての技術者は明日の夕方までに決議を出せるという事だった。

「今が辛い時期だからな。映像通信側にもフィガロから技術者派遣を頼んだし――」

 其処まで口にしてから、息を止めた。少し離れた位置に、セリスを見つけたからだ。室内の灯りを薄い金糸が反射させて天使の輪を描き出している。
 ロックは改めて、遠目からセリスを見つめた。出逢った時は筋肉質だった全身も、この3年でより女性らしくなったように感じられる。少し筋肉質だが、一般女性と大差はないだろう。

(菓子位、集中して作れるような普通の環境に措いてやれば良かったのか?)

 選んだ道は、既に引き返せない。答えの出ない問いを頭から追い出すと、ロックは周りに目配せで合図をした。周辺には、鉄道開発スタッフのメンバーが今か今かと息を殺して潜んでいる。
 ロックがセリスを捕獲するのに失敗したら、数の暴力で捕まえようという作戦なのだ。
 トランシーバーから通信ノイズが流れ出して、ロックとビッグスは息を飲む。

「ザザッ……こちらウェッジ。ターゲット、例の白い箱を持っています、どうぞ」

 その合図を待っていたとばかりに、ロックが隣で潜むビッグスに目配せで合図を送った。

「……こちらビッグス。コール開発室長、今から突入予定です、どうぞ」

 緊張が張り詰める。セリスが受付カウンターへ来た瞬間が勝負だ。一歩、二歩、三歩。軽やかな足取りが近付いた。
 カウンターに近付く一歩手前で、セリスは足を止める。

(……気付かれたか?)

 セリスは急に方向転換すると、小走りでとある人物に近付いた。
 これはロックも予想外だったのだが、セリスが駆け寄った相手はリルム・アローニィという少女と、ガウと呼ばれていた少年だった。かつてケフカを倒す時に一緒に旅をした、仲間達の1人である。
 リルムも初めて会った頃から4年の月日が流れ、いまや14歳。少女は少し身長が高くなり、ベージュ掛かった金髪も肩まで伸びている。可愛らしいピンクのロングパンツに、黒のダウンを羽織り、頭にはトレードマークの紅いベレーを被っていた。
 隣に並ぶガウは、カイエンの教育の賜物か、当時散々嫌がっていた靴を履き、明るい色のパーカーにカーキの膝下丈カーゴパンツという出で立ちだ。この3年で、一番身長が伸びたガウはいつの間にかロックの身長も追い抜かしている。

「リルム! ガウ! どうしたの、こんな所に」

 嬉しそうにセリスがリルムとガウに話し掛ければ、リルムが相変わらずの口調でにこやかに微笑む。

「ガウ! セリス、ひさしぶり! オレうれしい!」
「セリス久しぶり~。あたしはちょっくら、色ボケ王様に呼び出されちゃってさ」
「あら、エドガーも来てるの?」
「そうそう。それにしても、ココ広いよねぇ。あたし達迷子になりそうだったから、セリスに会えて良かったよ~」

 舌をチラリと見せて笑うリルムは、快活そのものだ。ガウも嬉しそうに長身を飛び跳ねさせて喜んでいる。セリスも思わず話に花を咲かせ、足が止まっていた。
 これはエドガーが作った機会に違いない。リルムが敢えてエドガーの名前を出したのだから、助け舟のつもりだろうと判断したロックは、音もなくセリスの背後に忍び寄った。

「……!」

 瞬時にセリスの喉元に腕を回して、片手はセリスの両腕を絡め取る。リターナーでの諜報活動で気配を消すことに慣れ過ぎていたロックには、如何に元帝国軍将と言えども察知が遅れてしまったようだ。セリスが気付いた時には時既に遅く、僅かな抵抗を許さない。
 こんな緊迫した時に、似合わぬ拍手が目の前で起こった。

「ロック、ちゃんとセリスつかまえた! ガウうれしい!」

 にこにこと笑うガウに毒気を抜かれてセリスの力が緩む。リルムは頭の後ろに両手を組んで、あはは、と無邪気に笑っていた。
 何はともあれ、勝利報告を仲間達にしなければならない。ロックは腕に装備したままのトランシーバーに向かって声を出した。

「12:06(ヒトニイマルロク)、目標確保。以後、鉄道開発室は明朝まで休暇とする」

 死角という死角からスタッフ達が踊り出て歓声を上げる。
 徹夜明けで興奮気味の鉄道開発室スタッフだけで6人。フィガロから緊急で連れて来られて見守って居た応援人員は8名。常駐医療班が4名。
 こんなに隠れていたのか、とセリスはすっかり呆れ返っていた。

「一体何の騒ぎなの。リルムとガウはアナタの仕業?」
「いや、多分エドガーだろ?」

 答えをリルム達に求めるように視線を移せば、ガウが「ガウガウ!」と大喜びではしゃいだ。リルムも、セリスに両手を合わせると「ごっめ~ん!」と謝っているのかいないのか判らない笑いをこぼす。
 ロックにとってはこれからが正念場である。少年少女の和む笑顔にも顔を緩めず、ロックは開発室のセリス信奉者ことウェッジとビッグスを呼んだ。

「ウェッジ、セリスの為にイけるか?」
「不肖、鉄道開発室ウェッジ、セリス・シェール女史の為ならこの身を捧げる所存にございます!」

 ビシリと決まった帝国軍独特の敬礼をウェッジが取る。その瞳には、死にゆく特攻隊さながらの悲哀と涙が浮かんでいた。
 ビッグスは震える手でセリスから白い箱を受け取り、中身をひとつ、ウェッジに手渡す。

「……くっ」

 ビッグスが涙を目に浮かべて顔を逸らす。リルムはエドガーから話を聴いていただけに、恐怖からゴクリと喉を鳴らした。
 皆が、ウェッジに集中していた。集中しすぎていた為に、新しい悲劇は幕を開けたのだ。

「ガウ! それ食べたらダメガウ!!」
「ちょっ、何やってんの野生児!!」
「う、うわっ」

 ウェッジは体格の良くなったガウに襲い掛かられて、思わず後ろによろめいてしまう。しっかりと握ったケーキは、ガウが一口で食べてしまっていた。
 じゃりっ……、じゃり……。
 おおよそケーキとは思えない音を立てて、咀嚼される。そして、ガウは横倒しに倒れ込んだ。

「「少年ーーー!?」」
「や、野生児ぃーーー?!!」
「……くぱぁ……」

 ガウは謎の音を出しながら、ケーキを口から床に戻す。みんなの視線の先には、ケーキとは思いがたい色鮮やかなブルーが吐き出されていた。
 そこに、ひとつコロコロと音を立てて転がる異物を見て、ロックはセリスを解放する。ガウに近付いて片膝を着くと、“それ”を拾い上げた。拾い上げた物を見たロック以外の全員が硬直する。
 今までのケーキは、どんなに不味くとも食品と食品を合わせた物だった。初めて見る“非可食の混入”に、背筋が凍る。

「ナット……?」

 リルムの声に全員が現実へと引き戻された。
 ナットの存在に、セリスを含む全員が青ざめる。その中で、ロックの表情だけが無かった。
 誰とも眼を合わさずに、ロックはセリスの左手首を乱暴に掴んで歩き始める。

「え。い、痛いっ……!」

 ロックがいつもするようなセリスに合わせる歩き方ではなく、彼が1人で歩く為の歩き方。
 例えセリスが倒れていても、引き摺られそうな程の力に一瞬だけよろめいた。だが、元軍人であるセリスは、必死に体勢を立て直してついて行く。

「待って、違うの……!」

 彼女の必死な弁明は、ロックには届きそうもなかった。


第6話:反転する衝動がグラスを割る

 

―――ドサリ。

 セリスが解放されたのは、2人の住処にあるリビングのソファ。セリスはソファに背をもたれ掛からせながら、手首を痛そうにさすった。ロックは大きな音を立てて壁に閉じ込めるようにセリスに顔を近付ける。ビクリ、と肩を跳ね上げて無表情のロックを見詰め返すと恐怖から彼女は視線を逸らした。
 リビングの脇にあるアイランドキッチンには、ボウルや泡立て器など朝の支度には不似合いな洗い物が洗い上げられている。お菓子作り後と思われる痕跡を見つけてしまった以上、セリスが作ったのかを問うのは愚問だと彼は感じた。

(昨日までなら、これ見ても聞いただろうな)

 ロックは、何一つ言葉を発さない。セリスは怯えたように俯くばかりで、声を出そうとしても震えて声にならない吐息は発するばかり。
 少しの静寂の後、セリスの顎を掴んだロックの手が、顔を上げさせた。

「………!」

 激しく無理矢理、唇をこじ開けるような接吻。薄い舌がセリスの口内を蹂躙するようにねじ込む。ロックの冷えた唇から唾液が伝って、セリスへ流れ込んだ。

「イヤ……ッ!」

 セリスは、ロックの胸元を力一杯押して遠ざけた。ロックは少し後退りリビングテーブルに背中を打つ。鈍い音にセリスが視線を上げるのと同時に、表情を無くしたロックが唇を手の甲で拭った。

「何が嫌?」

 ロックが感情を込めない声を発するのに驚いて、まるで別人を見る目つきでセリスが唇を乾かす。答えに窮した彼女の目の前で、握っていた掌を開く。掌にあったナットをテーブルにコトリと置いた。その一連の動作が、スローモーションに感じられる。
 そこから、セリスは何が起きたかわからないと言いたげな表情で、ロックの言動を見詰めた。

「言わないなら、解らない」
「え……」

「何が嫌か、何がしたいのか。俺が何も言わなくて解らないように、セリスが何か言わないなら、俺にも解りようがないし、信じようがない」
「ロック、……」
「あのケーキを作ったのは、セリス?」

 セリスの弁明を聞くために、彼は待った。俯く彼女を見詰めたまま、数十秒の間。だが、彼女は何も言葉にしない。溜め息をひとつつくと、セリスを横目で見た。

「セリスが解らなくていいなら、……俺も、もうやめる」
「何を……」
「セリスを理解しようとする事、全部。もう、やめる。俺に言えないのは、俺だから言えないんじゃないだろ」

(みんなにも、言えないんだろう?)

 そう続けようとして、ロックは息を押し殺した。ここまで言ってしまえば、嫉妬という欲望しか残らないからだ。
 小さくセリスが息を飲む音が聞こえる。
 言い終わって一息吐き出すと、ロックはゆっくりといつもの優しい表情に戻った。それでも、セリスは言葉を発さない。

(愛してるのに、)
「俺にも、言えない事なんだろ。それは、俺以外でも同じって事だよな」

 優しく低い声は、誰もいない場所で発せられたように静かに部屋の中で響き渡る。これに答えないのならば、彼女の答えは、無言の肯定だとロックは思った。その空白の数十秒間は、何分にも何時間にも感じられ、ロックの心身を蝕んだ。

(離れがたいのに、)

 自嘲気味にテーブルに就いた手とナットを見詰めてから、もう一度セリスを見た。理解し難いといった表情でセリスが呆然と彼を見ている。その顔を見て、彼は全てを諦めた。ロックは朝の挨拶みたいにスッキリとした顔で笑う。

「じゃあ、俺行くわ」
(俺が、言わなきゃ。)

「……もう、待たなくていいから」

 それは毎日出掛ける朝のような仕草で伝えた、明確な離別の言葉。一年間慣れ親しんだその部屋の扉を、振り返る事なく開けた。セリスが立ち上がる音は、扉が閉まる音にかき消される。
 外に出て空を見上げれば、昼間なのに雨が振り出しそうな曇り空。走ろうかとも考えたが、追ってくる気配も無いのでいつも通りに彼は歩き出した。

(覚悟、してたろ)
「……ガウ、どうなったかな」

 



………場面は、反転する。




 ガシャン、テーブルに膝をぶつけて高い音が床に転がる。音のした方へ反射的に視線を移せば、ドアの閉まる音が聞こえた。
 慌てて扉の方へ視線を動かしても、そこには閉められた扉だけ。床を見れば、無地のインディゴブルーで出来た陶器の残骸が散らばっていた。

「……ロック、の大事な」

 何を壊したのかをようやく理解したセリスは、慌ててしゃがみ込んだ。流れる金糸の髪を邪魔にならないように耳元にかける。カシャリ、素手でマグカップの破片を集めようと触れると、指先から赤い雫がポタリと落ちた。

『もう、魔法は無いんだから気をつけろよ。……俺じゃ、治してやれないんだから』

 いつかのロックが言った言葉が脳裏に蘇る。指先にキスをして抱き締められたあれは、いつの事だっただろうか。あの時と同じ自分の指先を見つめれば、細い線のような傷がついている。そこから、痺れる痛みを伴って指の付け根まで赤い血が流れていた。

「いたい……」

 口に出すと、感情も一緒に湧き上がる。視界がぼやけてくる意味を頭で理解出来ずに茫然と指先を見詰めていた。

(痛いのは、指じゃない)
「そんな事、理解しているわ」

(だったら、どうして)
「どうして…?」

 自問自答に問いで返す。それを答える事は認める事。答えなんて、見付けたくなかった。

『信じたいから、ちゃんと俺には話してくれ。その時セリスが嘘を就いても、俺は信じるから』

―――――あぁあぁああぁあアぁアァあああぁaあ、あああぁあぁ<なんでなんでなんで>ああぁぁあぁぁぁあ<どうしてどうして、>(馬鹿みたいに信じてくれていたのに)あぁあああぁあ(でも言えなかった)ああぁあ嗚呼ぁああ嗚呼嗚呼(彼より大事なものなんて)<どうしてどうして、>ああぁあ嗚呼、…………………

 悲痛なまでの心の叫びは言葉にならず頭を支配した。脳裏を支配する言葉とは別の嗚咽が耳障りに部屋に響き渡る。それから声が嗄れるまで、彼女は泣き続けた。アが開かれ「あれ、開いてる……」という呟きは、自分の嗚咽にかき消されて聞こえない。
 来客は、壊れたマグカップの前でひたすらに泣くセリスを見付けて、買い物袋を持ったまま走り寄った。

「……セリス?どうしたの!?」
「……どうしよう、ティナどうしよう」
「壊しちゃったから泣いてるの? ねぇ、どうしたの、ほら椅子に座って…」

 ティナが泣き続けるセリスの背をあやすように撫でると、セリスは子供のようにティナの胸にしがみついて泣いた。