呼吸をするように煙草に火を点して
[Side Lock / 世界崩壊前アルブルグの夜]



 煙草を唇に挟み込む。風を遮るように手を添えて、火を点けて、息を吸う。ただこれだけの仕草が彼の感情を平らにした。街灯りすら届き難い路地裏で、彼の掌から洩れる僅かな灯りは、火が映り込む事で彼の瞳の色を消す。まるでこの場所に自分が生存している事を訴えかけているようにさえ思えた。
 小さく紫煙を吐き出すと、煙は煉瓦で出来た街の四角い空を求めるように緩やかに延びていく。煙草に火を点けた事に疑問は持たない。煙草を口に加えたまま、手に馴染んだ革の手袋の裾を引っ張り直すと路地裏の壁に背を預ける。煉瓦の冷えたざらつきが彼の心を甘やかした。


―――何から、逃げた

 港街、アルブルグ。凪いだ潮風が、夜の空気を更に冷たくさせて頬を撫でる。月は冴え冴えと煌めき高く座して、何処に身を隠そうとも全てを見透かされる思いがした。
 思考は数分前に遡る。独りきり、彼女は海が見える場所で佇んでいた。
 …息を、飲んだ。
 遠く、水平線を見詰める彼女が、何を考えていたかなどと知れる訳もない。彼女は、言葉を持たなかったのだから。

―――伝えるべき言葉を持てなかったのは、俺だ。

 何もかもが中途半端だと、煙を吐いて自嘲する。呼吸をするように煙草の煙を肺に入れる事で、感情の色をひとつずつ消そうと試みた。
 レイチェルを現世に閉じ込めた罪が、罰として今、具現化した。大罪以外、この掌には何一つ残っていはしないのに、彼女に何を求めたのか。名を呼んだ事すら、赦しては貰えなかった。理解しあう言葉を持たせては貰えなかった。それも当然の摂理だと理解出来る位には、彼も冷静になれていた。
 魔導研究所の中で、彼は過去の恋人から向けられた言葉を受けた瞬間と同じ表情をした。ただ一人、心を開いた人間に切り捨てられた、あの時と同じ表情を。

(あの瞬間、考えちまったんだ)

 左手をキツく握り締めて、ゆっくりと開き、掌の血流を戻す。馴染ませる為に寝食を共にした革の手袋は、隙間を作る事無くその挙動に沿って動いた。

(――此が罰か、ってな)

 お互いに、傷付く限り傷付いた。これ以上、女神の姿で彼女は彼の何を断罪するというのだろう。これ以上、何を償えば、彼女に出逢った罪を消せるだろう。
 幾ら考えても答えの出ない問いに、感情を全て捨てられたらと彼は願う。相反する感情が、自分と言葉を持たない彼女を責める。

「…言わなきゃ、わかんねぇよ」

 長くなった灰が煙草の先から零れ落ちる。誰に対して呟いた言葉なのか、それは彼自身にも解らなかった。


 …彼に必要なのは
 感情よりも、贖罪の火。


―Endlees―