空気の冷たさに、ひとり目が覚めた。
ベッドから床に足を下ろせば、冷気が床板から足の裏を伝わって指先を痺れさせる。
眠っている間にはだけてしまったガウンの前を手で締めて、乱れた金糸を大雑把にかきあげた。
息を吐く。
室内なのに、息は白く濁って跡を残す。セリスは消える息に目を細めた。
「冷えて、きたわね」
Lock x Celes 魔大陸前夜
砂時計
ナルシェでなくても、海の近い場所は冷える。
浮上した魔大陸へ向かう為に準備を整えていた彼女達は、マランダの宿で一夜を明かす事にしていた。
しかし、セリスはマランダの宿で泊まる事を辞退してブラックジャックに残る事を選んだのだ。
(今頃は、みんな暖かい部屋にいるのかしら)
ベクタ帝国将軍時代に、マランダ侵攻戦線の指揮を執ったのは他でもないセリスである。
彼女の顔を誰もが覚えているわけではないだろうが、知らない者も少なくない。悪名高きセリス将軍、という称号は彼女の重ねた過去として付いて回るのだ。
街の住人を慮って、彼女は一人残ると進言した。
せめて、別の街にとロックが交渉してくれていたが、仲間達に迷惑をかけるわけにもいかない。
マランダで一夜を明かす事にしたのも、ブラックジャックの燃料を計算しての事である。
積みこんだ物資を無駄にする愚行を行うべきではない。
(まだ、私は戦局を見れる。そうよ、大丈夫)
軍人としての自分が消えたわけではない、そう言い聞かせた。
眠る前に飲んでいたティーポットの横には蒸らす時間を計る為の砂時計が砂を落とし切って静かに佇む。
カップはひとつきり。
眠れなくなると解っていても、身体を温めた方がましだと彼女はティーポットを片手に部屋を抜け出した。
ブラックジャックの中にある厨房は、娯楽室の先にある。
ひたひたと素足で廊下を歩けば、身体の芯まで冷え切ってしまう気がした。
廊下の窓から見下ろしたマランダの街並みは、雪降る白い風景の中で僅かに光っている。
真夜中の光は夜警用の街灯だろう。
その灯りが、泣きたくなる程暖かそうに見えた。
窓のガラスに指先を押し付けて、近くに寄ればガラスが曇る。
(近付いたら、みえなくなるのね)
当たり前のことだわ、と心で付け加えると、眉間に皺を作る程眉根を寄せて込み上げる涙腺を堪えた。
不意に、娯楽室へ続く扉が開く。
身を乗り出すように扉を開けた青年と、音で振り返ったセリスは視線を合わせる。
どうして驚いた表情をしているのだろうと、彼女は思った。
「……セリス。起きてきたのか?」
「ええ、紅茶用のお湯を沸かそうかと思って」
思わず理由を説明してしまったが、驚いたのはセリスも同じだ。
ブラックジャックにはセリス一人だけが残っている予定だったのである。
(心配して、くれたの?)
そう考えてロックを見詰めていれば、彼は視線を逸らした。
口元に手をあてた彼は、少しだけ怒っているようにも見える。
「こっち来いよ、そのままじゃ冷えるだろ」
(声は、静かだから、怒ってるわけじゃないのかしら)
声が聞こえているのに、言葉が耳に入らない様子でセリスは呆然としていた。
見かねて、ロックは彼女の手を引く。
娯楽室の中は暖炉に火が焚かれていて先程までの床よりも暖かい。
ティーポットが彼女の手から優しく奪われる。
ソファに座らされて、毛布を投げるように頭からかけられた。
「投げることないじゃない」
セリスが抗議しながら頭を毛布から出すと、ロックがマグカップをひとつ取り出す所が見える。
自分で飲むように既に沸かしていたのだろう、彼は手早くコーヒーを準備した。
テーブルにマグカップを乗せて、お湯を注ぎながら彼女の足を見て彼は顎を軽く上げて合図した。
「足」
「……あし?」
たんっ、とテーブルを打つ用にコーヒーを蒸らす時間の為に用意してあった砂時計をロックがひっくり返す。
雑にひっくり返された砂時計は、さらさらと砂を落としていく。
音に驚いて肩を竦めた彼女の両足を、彼は持ち上げてソファの上に置いた。
「冷たくなってんだろ」
(溜息、吐かれた)
毛布の中へ膝を抱えるようにしてみれば、触れた自分の足首が冷たい。
思わず手を外に出して毛布越しに足を抱える事にした。
セリスがソファに横座りしている隣へとロックが腰を下ろす。
暖炉の火が小さな音を立てて爆ぜ、光が彼の横顔を照らした。
彼の視線は砂が落ちる先だ。
「コーヒー、何杯目なの」
本当なら、どうしてここに居てくれたのか、眠らなかったのかと尋ねたかった。
しかし、答えてはくれない気がして彼女は一番どうでもいい質問を口にする。
「何杯目、だろうな」
(その答えで、十分よ)
彼はここで眠るわけでもなく夜を明かしていたのだ。
窓の外にある白い世界を見た時と同じ表情で、彼女はロックを見る。
優しさが胸の奥にある哀しみを揺り動かす。
セリスは、笑ったつもりだった。
「……なんて顔、してんだよ」
ロックの手が顔の近くに伸びてきて、彼女の頬に触れる。
手袋を外した手は、お湯を注いだばかりで温かい。
彼の指先が白い頬の冷たさを確かめると瞼を座らせて苦い物を噛んだ用に笑った。
コーヒーの薫りが、鼻をくすぐる。
きっと、もう砂時計の砂は落ちきっているのだろう。
確かめもせず、セリスはそう思った。
「コーヒーなんて飲んだら、眠れなくなるわね」
「……そうかもな」
そう言って、彼の手が手繰り寄せるようにセリスの頭の後ろに滑る。
身を乗り出すようにして彼から重ねられた唇からは、 やはりコーヒーの薫りがした。
瞬きもせずに彼の輪郭を見て、それを受け入れる。
瞳を閉じてしまえば、ここにいる彼が夢のように覚めてしまいそうで怖かった。
触れられない事より、嫌われるより、夢であってもいなくなる事に怖れを抱いたのだ。
明日になれば、戻れない場所へ彼は旅立つ。
ゆっくりと唇が離されて確かめれば、彼もまた瞳を開けたままだった。
このまま感情に身を委ねて抱き締める事は容易い。
(でも、壊れてしまうかもしれない)
そんな事はないと解っていても、この夢から醒めたくなかったのだ。
もし、彼に抱き締めて貰えるとしたら―――
(―――明日、その場所で、私が責任を果たしたら)
誰に言うでもなく、一人決めて勝手に整えた旅支度。
単身、彼女はかの大陸へ乗りこむ。
自らこの手で滅ぼしたマランダに居た事で、自分の責任は再確認している。
明日、刺し違えて自分は死ぬだろうとセリスは考えていた。
けれど、口づけた唇はこんなにも愛しさを残す。
言葉にしても何を残せるかわからないのに、唇の重なる熱量だけで心にある白い世界に彼のカタチが創られた。
照れたように彼が離れると、砂の落ちきった砂時計を脇に寄せてコーヒーを注ぐ。
(春まで、私の命は続かないから)
こうして自分の為にコーヒーを注いでくれる彼に何かを返せるだろうかと、考える。
無造作にマグカップを突き出されて、それをセリスは受け取った。
コーヒーの薫りで、初めてロックに連れ出された日の夜を思い返す。
(あの時はこんな風になると思っていなかったのに)
「時が、止まってるみたいだわ」
両手でマグカップを持ち、琥珀色に視線を落とす。
そうやってセリスが呟くと、彼は横で軽く笑った。
「俺の時が止まっているから、巻き込まれたのかもな」
彼の真意はセリスには解らない。
けれど、砂時計はひっくり返せばまた時を動かすのだ。
コーヒーをテーブルに置いて、彼女は砂時計を手繰り寄せる。
「じゃあ、次は私が巻き込んであげるわね」
そう言って、彼女は砂時計をひっくり返した。
自分の命と引き換えにでも彼の時が動かせるようにと願って。
リクエスト:「ゴスペラーズ/砂時計」で「ロクセリ」
20131106