「××××、××。」

[ First Ending for "The world where you alone do not exist." ]

第5話



 

 それから暫く、彼が家を出る事はなかった。彼女は元々細い身体をみるみる痩せさせていく。
 魔導回路による侵食が始まったのか、それとも――。

 

 

××××、世×。
[選べる道は少なくても、それが最善だと]




「おい、無理すんなよ」

 取り込んだ洗濯物を籠に入れて持ち歩くだけでふらついたセリスを、ロックが慌てて腕を掴んで支える。掴んだ腕は、帰ってきた時と比べ物にならない位に細い。食事をしていないわけではないのに、落ちていく彼女の体力。
 「変ね」と言いながら確実に長くなっていく睡眠時間。無理に食事量を増やそうとすると拒絶して嘔吐する身体。彼女の体調は、誰から見てもおかしくなっている事が明らかだった。

「それ、俺やっとくから少し横になれよ」
「ええ……」

 洗濯籠をロックに渡して、セリスがふらふらと寝室へ向かう。心配になって籠を持ったまま見詰めていると、彼女は寝室に行く前にリビングのソファへ倒れこむように身体を預けた。洗濯籠をリビングテーブルに置いて、ロックがソファへ近づく。
 近付いてソファの前に胡坐をかこうとするロックの姿を見て、セリスが慌ててうつ伏せになった。彼がセリスの頭を優しく撫でると、少しだけ震えるように動いているのがわかる。
 何も言わずに、ゆっくりと頭を、背を撫で続けるロックに、セリスがうつ伏せのまま言葉をソファの下へ落とした。

「……ごめん、なさい」
「なんで謝るんだよ」

 隠していた筈の嗚咽が漏れる。うつ伏せの顔に滑り込ませた彼女の細い手が、見るだけで痛々しい。ロックはそっと手で覆い隠そうとする彼女の顔をみようと、両手で彼女の手を覆うようにして優しく掴んだ。
 赤く腫れた瞼。おそらく、今日一日ずっと泣きたい気持ちを我慢させていたのであろう真っ赤に染まるこけた頬。彼女の白磁の肌は全体的に青ざめていて所々薄く血管の青が見え隠れする。セリスを心配させないように、何度か医師に往診に来て貰ってはいるが、いつまで騙しとおせるかは疑問だった。
 顔を見られたことで更に涙腺が緩んだセリスが、ボロボロと大粒の涙を零し始める。膝からロックの所へ下りて、彼女はすがるように泣いた。
 折れてしまわないようにそっと彼女を抱きしめて「大丈夫だよ」と優しくロックが囁く。セリスにはそれすら罪深く思えるのか更に嗚咽を酷くして咳き込み始める。彼女の縋る右手を左手で絡めるように繋いで、背中をさすり続けた。
 暫くの間、二人はそうして床に座り込んだまま抱き合っていた。
 ようやくしゃくりあげる程度までになったセリスが、鼻をすすりながら少しだけ顔をあげる。涙袋が晴れて虚ろにしたアクアマリンの瞳が、歪んだままロックを見上げた。
 切なそうに微笑んで、ロックがゆっくりと彼女にキスを落とす。彼女の腫れた唇を傷つけないように、そっと、心が伝わるように、長く。口でしか息が出来なくなっている彼女がそっと唇を離すので絡めた手をセリスの胸元へ持ってきて、ロックが両手で覆うように包む。

「あの、……あのね」
「うん」
「……パイ包み、の。シ、シチューがっ、…作れるようになったの」
「……うん」
「で、でも……ダメ、なの。つくれ、ないの。ロックと、冬になったら、食べようと思って、たのに」
「うん」

 ようやく彼女が手にしたありきたりな幸せは、指の隙間から砂のように零れ落ちていく。言葉を紡ぎながら必死に堪えていた彼女の感情も溢れ出して、涙と一緒にロックのシャツに染みをつくっていく。

「ずっと、綺麗に、してなくちゃ。ロックが。他の子好きに、なったら、い、嫌だからって……」
「そんなことない。俺、セリスしかいない」

 肩を抱いてセリスの頭を撫でる。朝、鏡を見るたびに衰えていく自分を見るのはどれだけ辛いのだろうか。綺麗でいたいと願う女性ならば尚更、心の痛みは激しいだろう。
 ロックは、自分の気持ちに素直な言葉を吐くセリスに彼も素直な気持ちで応える。容姿じゃない、彼女の心があって、彼は現世に踏みとどまれたのだから。レイチェルがフェニックスの力で現世を離れた時、セリスが居なければ彼は世を儚んでいたかもしれない。
 だから、彼は決めたのだ。

「でも、これじゃ、ロ……ックに嫌われちゃう」
「嫌わないよ」
「う、そ」
「あのな。聴いて欲しいことがあるんだ」

 ケフカを倒してから三年間、彼女と二人で暮らしたロックは、セリスが懸命に普通の幸せを享受しようと努力を続けてきた事を理解できた。だから彼も懸命に努力を積み重ね、二人だけの、小さな家を持てた。
 それだけで幸せだった。
 だが、もう二人だけの問題をとうに飛び越えている。近くに住むティナにもきつく口止めをしてあるが、仲間達の意見は全員一致で決まっていたのだ。
 だから、彼は事実ではなく、決めた事だけを伝えようと心に決めて、セリスの髪を梳かす指先に力をこめる。

「俺、お前のことが好きなんだ」
「……う、ん」
「だから、俺。セリスの事哂う奴が居たらぶん殴りたいし、セリスをぶん殴ろうとする奴は崖から突き落としたいし、セリスを奪おうとする奴は刺し殺したい」
「……」

 彼が何を言おうとしているかを考えて、セリスが黙る。ガシガシと後頭部を掻いて、ロックは「巧くいえねぇな」と呟く。その様子が可笑しくて、セリスは少しだけ泣きながら笑った。
 「笑うなよ」と困ったように言うロックが可笑しくて笑っているか、泣いているのか、セリスは俯いて肩を震わせる。

「俺、セリスのいない世界とか、考えられないんだ」

 依存とも呼べる言葉を口にしてから、ああ、確かにそうだと彼は自分の言葉に納得する。だから、彼はこの選択を選んだのだともう一度決意を新たに、自分の心を奮い立たせる。

「俺……セリスの事一生賭けて守るから。誰が敵になろうと、世界中全部敵に回っても、俺がずっと守るから。……だから」
「……だか、ら?」
「……だから。――何があっても、俺の傍からいなくならないでくれ」

 ぎゅっと、ロックがセリスを抱きしめる。彼女が呟いた答えは小さすぎて聞き取れなかったが、腕の中でセリスは震えながら必死に頷きを繰り返す。
 何も出来なくなった自分を、必要としてくれる人間がいる。それだけでセリスの心が癒されていく。必要とされないのではないか、捨てられる前に逃げ出した方がいいのではないか、――いっそ、死んでしまった方がいいのではないか。そんな薄汚れた想いも涙と一緒に流れ落ちていった。

 ケフカを倒した仲間達全員が出した結論がロックの脳裏を掠める。彼らは、全員口を揃えてこう言ったのだ。
『お前に、任せるよ』、と。

 漆黒の侍は携えた刀の鍔を撫ぜて呟く。
「女性(にょしょう)の事は解らぬが、拙者も家族と国を失った身。セリス殿を殺せば、如何様にしてもロック殿は拙者達へ憎しみが募るであろう。最後の瞬間まで、添い遂げるのは是非も無い」

 魔力を失った、幻獣と人間のハーフは少し躊躇いがちに、ロックの肩を叩く。
「女神になる、っていう事自体がどんな影響を齎すかは私にはわからないわ。でも、セリスの幸せを選べるのはロックだけだと思うの」

 魔物の群れで育った一番魔物に近い少年は言う。
「ガウ。セリス、悪い奴になるのか? そしたら、また俺たちが懲らしめにいくガウ! セリス、魔物になっても、ガウ話せる。大丈夫!」

 少年の髪を撫でる好々爺は深い皺にたっぷりと蓄えた白い髭を揺らして語る。
「セリスがどうなるかは決まったわけではないゾイ、ガウや。だが、時が来れば、魔法使いの末裔として、責任を果たさねばならんかの。……来たる未来に災いの種を残すのではなく思い出だけを残していきたいもんじゃゾイ」

 顔に傷だらけの賭博師は、とんだ大博打だなと口元を歪めて笑う。
「まあ、何処に隠れても親友の相棒は健在だからな。ファルコンに飛べねえ場所はねえって教えてやるよ」

 幼さを残した発育途中の天才画家は賭博師が羽織る黒のコート裏から顔をだして、悪戯っぽく舌を出した。
「リルムはまだまだ若いから、ドロボウたちが敵に回ったって何回でも挑めるしね」

 そして、ずっと瞑想するように黙っていた双子の一人、大男と表現するのが相応しい修行僧は腕を静かに目を開いてロックを見る。
「……俺は、ロックの気持ちとかわかんねぇけどさ。隣にいてやりたいんだろ? まぁ、何かあれば俺や兄貴達もいるし、頼ってくれればいいんじゃねぇかな」

 全員の言葉を受けて、一国の王は重々しく口を開いた。
「これはね、親友としての意見というより、男として言わせて貰うよ」
 すっと息を吸って、真っ直ぐに彼はロックを見る。
「セリスがどうなろうとも、例え私達が敵に回ろうとも。最後まで、自分の愛した女性を守り抜けよ」

(なあ、セリス。)


(俺達、こんなにいい仲間がいっぱい居たんだぜ)


(でもさ、俺)


(やっぱり、セリスのいない世界が考えられない)


(みんながいて、笑ってて)

 


(でも、どこかにセリスが居なきゃダメなんだ)

 

 


(だから、)

 最後の時まで添い遂げると、彼は選択したのだ。