本を開く。

 彼女にとって、本は世界のひとつだった。知識を蓄える度に憧れの母へ近付ける気がしたのだ。

 そして何より、誰彼の声が聞こえない。学び覚える為の本は、彼女の記憶を、感情を、過去を、呼び覚まさないのだ。 ヒトノコエは嫌いだ、そう思っていた彼女にみっつ、好きな音が出来た。

 

 ひとつ目は「今日はカレーだ」と呼ぶ血の繋がらない保護者の声。

 ふたつ目は顎の下を撫でると、「ワガハイは人間だぜ?!」と言いながらゴロゴロと鳴らす音。

 みっつ目は……。

 

「双葉」

 

 そこで彼女の思考は途切れた。 自分の想像よりも遥かに明確なその声が聞こえた気がしたからだ。

 振り返ると、黒い瞳が首を傾げてこちらを見ている。

 

「邪魔だったか?」

「い、いや、そんな事はないぞ!」

 

 デスクチェアに体育座りした状態で椅子を回転させて彼女は振り返る。読んでいた本に栞や目印を挟む事も忘れて、その辺りに放り投げた。

 ちら、と彼がその本に目配せしたが、興味を失ったように双葉に視線を戻す。

 

「今日のカレー、俺が作るけど食べる?」

「食べる!」

 

 カレーのテスト中なんだ、と彼が神妙な顔付きで眼鏡をかけ直す。

 その様に笑いを堪えきれず、双葉は肩を震わせた。

 

「カレシのカレーは辛いからな」

 

 今日も本を閉じた先に幸せな音が聞こえるのだろう。 今から想像するだけで心が躍る。惣治郎の苦虫を噛み潰したような顔を想像してまた更に彼女は愉快な気持ちになった。

 

「モナも食べられれば良いのにな、カレシのカレー」

 

 それはどうだろう、と相変わらず反応の鈍い表情で彼は答えた。 彼女はジャケットを羽織ると彼を追うように扉を閉める。彼女の全てだったその世界を後にした。