「××××、××。」

[ First Ending for "The world where you alone do not exist." ]

第4話




 家屋から物音がしない事に気付いて、彼はそっと玄関の扉を開けた。藍色のジャケットと革の手袋をリビングに入る前に脱いで、小脇に抱える。
 テーブルチェアに背を預けたまま、穏やかに眠る金色の髪を揺らす眠り姫。チェアの後ろでは、麗らかな日差しと白いレースカーテンを凪ぐ風が天使の翼を創る。

―――女神、か。

 

×××き、××。
[ただ、ただ、座る場所を探してる]



 リビングのソファへジャケットと手袋を投げると、セリスの眠るテーブルチェアへそっと足を忍ばせる。そうして、彼女の背中に回ると、彼は両腕を肩を抱くように回してセリスの右肩に顔を埋めた。セリスの服から、陽向の匂いがする。太陽に干したばかりの、幸せな匂い。
 幸せを噛みしめるように、すぅ、と息を吸い込むと、回した手に彼女から手が添えられた。

「……おかえりなさい」

 此の与えられた世界で唯一つ、帰るべき場所。たった一言が幸せを彩る向日葵のよう。テーブルチェアの背凭れ越しに抱き締める彼女は、日差しを反射する白いレースカーテンの風を受けて目を伏せたまま優しく微笑んだ。

「ただいま」

 お互いの一言が、互いの居場所を確認しあう幸せ色のクレパス。其処に徴を付けて、何処に居ても帰るべき場所を見失わないように出来るのだ。
 金色の長い睫が、ゆっくりと水平に持ち上げられて、円い湖が昼間でも小さな月の影を落とした姿で現れる。世界中の何処を捜しても、こんな綺麗な湖と月の影は見つけられないだろうなと、世界を旅するトレジャーハンターは横目で見上げて考えた。
 セリスの目に映るのはロックの腕越しに見える焦茶色をしたソファに放り投げ出されている藍色のジャケット。彼女は軽く溜息を就いて、目の端に映るブルネットの髪へ視線を投げた。

「また、ソファに放り出したのね」

 ソファに放り出したジャケットを咎められて、それすらも愛しいとロックは微笑みながら抱きしめる力を強くする。仕方の無い人ね、そう言たげな瞳と微笑みに愛されていると実感するのだ。
 いつもより長く家を空けていた日は、こうしてロックが暫くセリスを抱きしめる。言葉に出さない“寂しかった”、“会いたかった”がいっぱいに詰められた抱擁は、セリスも愛されている事を確認出来る幸せのひととき。本当は言葉に出して欲しいのだろうが、不器用な彼にそれを求めても困ってしまうだけだと彼女はよく理解出来ている。
 だから、この幸せの静寂をゆっくりお互いに噛み締めるのだ。

「……セリス、ちょっと痩せた?」

 どれくらいそうして居たのか解らない時間が経過した後、ロックが抱きしめる格好のままでセリスの掌を掴む。掌を親指の腹で確かめるように押して確かめると、「くすぐったい」と無邪気な笑い声が聞こえた。
 ロックに解放されて立ち上がると、藍色のジャケットと手袋が放り出されたソファへセリスが向かう。拾われて両腕で抱えたジャケットと手袋に苦笑いしながら、それらを彼女は洗い場へと持っていった。
 水場からリビングへ顔だけを覗かせて、セリスが「すぐにご飯にするわ」と言い残す。軽く返事を返したロックは、セリスの居なくなったテーブルチェアの背凭れに腕を置いたまま、自分の手を見詰める。
 先程確かめた、セリスの掌。その感触を確認していた。

―――私達の意見は二極化しております。

 研究員が言った言葉がロックの脳裏に甦る。視線を外に移せば、新緑が広がる風景と、彼の視界を奪おうとする白いレースカーテン。眩しそうに目を細めて、太陽の広がる世界の先に、自分の記憶を映し出す。

『ひとつは、魔力の枯渇で魔導回路が通常細胞と血管を侵食して始まる、異形化』

 研究員が差し出した資料の束を捲ることなく、虚ろにみやった白地に黒の文字。異形化するに当たっては苦しむことなくただ、それが自然の摂理であるように進化するだろうと研究員は言った。今まであった細胞が変質化して異形化には苦しみよりも悦楽の感情が大きくなるというのだ。
 そして、節くれだった研究員の手が重ねるもう一つの資料束。

『もうひとつは、・・・』

 その先は頭を振って思い出さないようにする。これ以上考えてもどうする事も出来ないのだ。魔力自体が枯渇し始めたこの世界では魔導を使用した延命措置は不可能。ただ、残された時間を謳歌する以外に残された手段は無い。
 ふと思い出す、薔薇に包まれた棺の家。部屋自体を棺にした、赦されぬ過去。もうあの薬すら出来る事は無い。一度犯した過ちを繰り返すつもりも、彼には無かった。
 コトリ。白のプレートがテーブルの上に乗る。
 気がついて顔を上げれば、向かいのテーブルチェアを引いてセリスが席に着くところだった。微笑んでカトラリーの入った藤篭をロックの前に置くセリスは、少し痩せた印象が否めない。
 ロックも腕を置いていたテーブルチェアを引いて座る。微笑んで食卓を囲む幸せを、手に掴んだ銀色のカトラリーを、汚れても白がいいと彼女がせがんだテーブルクロスを、太陽が暖かく包んでいた。